アフリカ研究に没頭していた学生時代。その頃の私の頭の中はアフリカ一色だったような気がします。アフリカって日本とはいろんな意味で対局に位置しているような土地で、自分が持っていた常識をことごとく覆されました。

その後アフリカ以外の外国も訪れるうちに、日本の常識こそが世界の非常識なんだと思うようになりました(笑)。バスや電車が時間通りに来る事なんてほとんどないし、道を聞いても適当だし、注文した料理は出てこないし、定価なんてあってないようなものだし、日本の常識からだと間違いばかりです。だからこそ、間違いに対してとても寛容だなと思う事がしばしばありました。おっちょこちょいの私は失敗を本当にたくさんしてきました。でも、「しょうがないね、人間だから。でも同じ間違いはしないように気をつけようね。」という柔らかいクッションがあったので、失敗から楽しく学ぶ事ができました。

 

一方日本にいて感じるのは、「こうあるべき」という事がやたらと多い事です。和を保つための暗黙の合意があり、それがよい意味で機能する時は、世界でも稀に見るくらい素晴らしい国民性を発揮します。でも何らかの危機的な状況や、思いがけない厄災が発生したときに、その「こうあるべき」という暗黙の合意が、今回のコロナの件でも見られるような「自粛警察」なるものを生み出したり、多様性を排除する動きを助長したりするのかなとも思います。

 

何が言いたいかというと、英語を学習する上で、この「間違いに対して不寛容な空気」は大きな弊害になるのでは、という事です。子供達を観察していると、年齢が上がれば上がるほど、間違えに対しての恐れが大きくなる傾向があります。あんなに活発におしゃべりしていたのに、高学年になった途端、ほとんど発話しなくなったな~と思ってしまう生徒さんも少なくありません。もちろん、自我に目覚める時期、自分や他人の存在が必要以上に気になる年齢という事もあるかと思います。でもそれ以上に、間違ってはいけない、間違いはダメなこと、間違う事は恥、という一種の呪縛のようなものを感じてしまうのです。

でも言葉は間違いながら習得するもの!使って、直して、使って、覚える。この繰り返し。もちろんスペルなど明らかに「正解・不正解」で判断できる事もありますが、いろんな言語がミックスされ、日々進化(変化?)している英語はスペルや文法、発音の仕方も国によって違うし、例外だらけなのが英語の特徴なのです。

 

この「間違いに対する異常なまでの恐れ」はどのように作られるのか、理由はいくつかあると思いますが、その一つは、大学受験を核とする日本の教育システムではないかとも思います。日本の一般的な教育は、「正解・不正解」を判別する能力を育成する傾向にあるなと、テストの内容を見ていると感じています。例えば、英語だけでなくすべての記述式テストにおいて書き間違えというのは致命的です。漢字を間違えるのもひらがなを書き間違えるのも全部✖になってしまいます。文法、出題の意図には合っているのに一か所スベルミスがあるだけで×になります。完璧でないと減点になってしまう、こういったマインドセットがゆっくりじっくり「正・誤」という二元的な思考を作り上げていくような気がしてなりません。このように世の中を「正・誤」という二元的な思考で見てしまうと、間違いを成長の過程として楽しむ余裕がなくなってしまうと思うし、すべての事に対して正しい答えがあるはず、という妄想を育んでしまうようにも思います。

 

このような二元的な価値観が蔓延していると、完璧でないと英語を発話したくない、という気持ちになるのもしょうがないのかもしれません。英会話の先生は、「どんどん間違いながら英語を学習しましょう」というメッセージを発信するのですが、一方学校からは「一つでも間違ったら減点しますよ」というまったく違うメッセージを植え付けられます。「みんな違ってみんないい」というメッセージと並行して、「人と違う事をしたら、内申点で減点された」という事もしばしば。ダブルスタンダードの狭間で子供達も混乱してしまいますよね。

 

ちなみにアークアカデミーは英語の多読を強くお勧めしていますが、多読が良いと思う一つの理由は、分からない単語はあまり気にせず、文脈から意味を読み取る訓練ができるからです。一般に、学校の国語授業では行われるのは精読です。1つ1つの文を事細かに分析し、正しく理解する事を重要とします。でも一つ一つの単語に囚われすぎると、全体が見えなくなってきます。コミュニケーションにおいても間違いに気を囚われすぎると、その本質がつかめなくなってきます。会話の途中で知らない単語が出てくると、その途端頭が真っ白になって、会話についていけなくなる人も多いと思います。文脈(相手の表情、タイミング、声のトーンなど、言葉以外の事も含みます)から細部を察する力は、コミュニケーションにおいて、とても重要な技術なのです。

 

「人前で間違いたくない」という恐怖観念は、文化によって形成されている場合が多いと思うので、「日本」という価値観を絶対視せず、自分達の持っているものの見方や考え方のバイアス(偏見)を少しづつ取り除いていければ、もっと気楽に英語学習を楽しめるのではないかと思います。