かべ

簡単な日常会話(初級程度)が楽しめだすと、多くの学習者が直面する「英語の壁」があります。これは、単語や文法という技術的な壁ではなく、精神的な壁です。この精神的な「壁」はいくつかあると思いますが、私が思いっきりぶつかってしまった「壁」は文化の違いによる「壁」でした。
研究者によると、世界の文化は二つのグループに大別されるらしく、そのうちの1つは、西洋的自己が出現してきた文化、すなわち「個人主義」です。個人主義文化では、自己の独立した解釈が奨励されます。つまり、他人の考え・感情・行動との関係からではなく、自分の考え、行動との関係によってみずからのふるまい方が、主として決定される個人として、自己をとらえます。※

もう1つのグループは「集団主義文化」で、これは包括的社会の一部として、自己をとらえることを意味しています。こうした文化の人々は、他人の考えや感情や行動だと理解しているものによって、自分の行動が決定されたり、左右されたり、また大幅につくられているという認識を持っています。よく、「そんなことをしたら人に笑われるわよ。」とか「でる杭は打たれる」なんていう言葉を聞きますが、日本はこうした集団的文化に属します。なので、主流になっている価値観から逸脱することに、非常の恐れを感じるようです。
以前、2年生になる息子の参観日を見に行きましたが、ある一人の意見にみなが口を合わせて「~さんと同じです。」といっている姿に少しびっくりしました。アメリカではありえない光景ですね。

この文化の違いは言葉の構造にも反映されていて(もしくはその逆で、言葉によって文化が形成されている?)、いわゆる英語の発想に頭を転換することが、英会話の上達には不可欠になってきます。
たとえば、英語の構造は、かなりおおざっぱになりますが、主語(誰・何)がどうした・主語(誰・何)がどんな状態なのか、を説明していく言葉です。要するに責任の主体をはっきりさせたい言葉だと思います。アークで学んでいる子供達が頭を悩ましている「複数形・単数形」などの概念も、実はこの責任の主体をはっきりさせたいという性格上のもののように思います。例えば、日本語で「彼女はコップを壊した」だと、1つのコップなのか、数個のコップなのか分かりませんが、英語だと、「She broke a cup」(単数)「She broke cups」(複数)というふうに使い分けます。1つ壊したのと、10個壊したのでは随分責任の重さが違ってきますよね。英語圏で育ってきた子供達は、知らず知らずのうちにこうした個人主義に根ざした論理的思考を言葉を通して養ってきているように思います。

一方日本語の場合、結論となる動詞が文の最後の方に出てくるので、話し相手の様子をみながら、動詞(結論)を曖昧にしたり、変えてしまうことも可能です。(福島の事故について未だに責任が追求されていていないのは、こうした集団的思考の不の部分が現われているように思います。)
責任の主体をはっきりさせたい、という英語の性格を理解することによって、私自身、英語に対する理解が深まったように思うし、英語だけではなく、自分が背負っている文化についても客観的に見つめなおす機会となりました。

言語を学ぶことは、それが背負っている文化も学ぶこと。自分の文化や価値観を絶対視せず、心も頭も柔軟になることが、「英語の壁」を乗り越える一歩かもしれませんね。

※「英語が話せる日本人、話せない日本人。」  著者:S.マーフィー重松