思想家の内田樹さんはある講演会で、「読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないか」という事を述べられていました。

読解力って、文法的な知識の量で測られるものではないし、語彙力を増やせば、すべての文章が読めるようになるというものでもありません。私が英語の多読を始めた当初、わからない単語があるといちいちそこで止まっていました。そこから先に進めなくなるのです。単語の意味が気になって仕方ない。ある文章に一箇所だけ意味が曖昧な部分があるだけで、もう先に進めなくなってしまうんです。英語で会話をしているときも同じ。知らない単語が出てきた時点で頭の中が真っ白になり、相手と目を合わすのも怖くなり、愛想笑いをしながらも、なんとも悔しい思いに駆られたものです。

けれど、英語の意味のわからない文章をたくさん読んだりしていると「意味」というのは往々にして「あとから分かってくるもの」だということが少しずつ分かってくるようになりました。また、会話中にわからない単語が出てきても、相手の表情や前後の関係で会話全体の意味がつかめるようになりました。

この読解力って、「生きる力」とお置き換える事ができるように思います。人生においてわけの分からない不快な事や想定外の事、自分の知的枠組みの中では対処しきれない事って必ず起こるものです。頭の中がまっしろになり立ち竦むこともあるでしょう。特に文明の恩恵にどっぷり浸かりながら生きている私達にとって「想定外」の事を想定する想像力が欠けているよにも思います。小さなバックパックを背負ってアフリカを旅した事がありますが、旅をしていると想定外の事ばかりです。というか想定外の事しか起こりません。この想定外の事に出くわしたとき、経験やら知識やら本能やらを総動員させ、その時々で最善な選択を模索してくしかないのです。そしてず~と後になって、人生の枠組みの中でそれらの想定外の事柄を思い返した時、まるでパズルのピースのように重なって、完成された絵がやっと見え始めるものだと思います。

大学入試テストでは、どの教科も読解力が試されるようですが、「答え探し」に終わるのではなく、自分の知的枠組みをいったん壊し、もっと包容力のある枠組みを採用するという孤独な過程を楽しめる事がでいるといいですね。

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